安冨歩とアメリカンビューティー。見栄のための読者とラップ。
アメリカンビューティーを見た
アメリカの家庭を描いた映画だげれど、全然他人事の気がしなかった
わかるわー、という雰囲気がいたるところにあった
それは「システム」と「個人」の軋轢。
「家庭」の役割の中で「個人」が抑圧されている。「夫」も同じ。
「システム」というらしさが「個人」の本音に抑圧をかけている
これってまんま現代日本やん
同時にそんな現代日本の社会「システム」のことを狂ってると評した人物のことを思い出した
安富歩。東京大学の教授で満州国の研究や、女性装で有名な人物である。
この社会のことを立場主義と論じている。
ようは上に書いた「システム」の強制と同じ。
その「システム」の歯車として人間が扱われているので、個人が死んでいくのだ。
特にMCバトルで顕著に感じる。
僕自身がそうであったが、勝つためというより、存在証明のため、にバトルをしているのだ
(ちなみに曲でそういう内容を歌っているラッパーもいる。狂っている。)
だから負けると全否定されて死んだような気分になるし(2時間街をうろついたりする)、勝っても「ふー、よかったー」と一安心なのだ。
ようはラップで勝てない自分、つまり何かで他人より秀でている人間でないと「システム」の中では価値がないダメ人間扱いなのだ。
そんなわけないやん。
別にラップうまかろうが下手かろうが、自分の価値には何の関係もない。
そもそも価値とは、何かの基準において有効性があるかないかという量のことだ。
つまり基準が違えば価値も違う。
日本語のラップだけ上手くても、江戸時代やアフリカの民族の中では何の価値もないだろう。
そして自分に対する価値の基準は自分で決められるのだ。
その基準に他人や「システム」が入っていないか?
現代日本はそんなアメリカンビュティーな雰囲気ムンムン。
ならどうすればいいか。
自分で価値を決めればいいのだ。
自分で自分の価値を決めれるなら、「勝とうが負けようが何しようが俺は最高すぎる」
これでいいのだ。
別にバトルがどうの、ラップがどうの、何の関係もないし、どうでもいい。
その上でやりたいことやればいい。
当然勝負したいならしたらいいし、勝てば嬉しい、負ければ悔しい。それでいい。
重要なのは、それはただの娯楽で自分の価値には何の関係もない、ということだ。
だからやりたい放題やったもん勝ちなのである
そしてやりたい放題してると「システム」の歯車になってしまった人から必ず反発を食らう。
「俺は無理して頑張ってんのに、お前は何で頑張らへんねん!」と。
そういう人は、無視。影響を受けないようにする。これだけだ。
具体的には、一切の連絡を絶ち、物理的に距離をおいて面会謝絶。これだ。
アメリカンビュティーな人生を生きても今の「システム」はプレゼントをくれない。
「システム」の外に出て、自分でぴったりの「システム」を作る時代になっているのだ。